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すこやか

おばあちゃんの思い出

私のおばあちゃんの口癖は、

「結婚なんてろくなものじゃないから、結婚しないで、稼ぎがよくて食いっぱぐれない薬剤師になれ」

「女なんだから片付け、料理はできるようになりなさい」

だった。

 

私が生まれる前におじいちゃんは亡くなり、家には両親とおばあちゃんと弟2人の5人暮らし。世話焼きなおばあちゃんは、私が小さい頃から身の回りの世話をしてくれていた。

ご飯を作ってくれたり、一緒にお風呂に入ったり、権堂の映画館やヨーカドーにあるゲームセンターへ連れて行ってくれたり、お小遣いをくれたり、掛け布団をかけずに寝落ちしているときには布団をかけてくれたり、字がうまい祖母は冬休みの宿題である書き初めを教えてくれたり。りぼんやなかよしにある絵を真似して描いている私を見て大量のコピー用紙を買ってくれたり、おばあちゃんが好きなワンピースを切って使って、中に小豆をいれたお手玉を作ってくれたりしていた。

いつもの口癖に「なんでそんなに私の人生を決めつけて押し付けるんだ」と反発したり。

もちろん両親はいるが、母親のように接してくれていたと思う。

 

大学進学とともに長野の実家を出て、東京で一人暮らしを始めてからは、夏と冬には実家に帰っていた。大学生、社会人になっても、実家に帰るたびにお小遣いをくれた。一般的に聞くような「結婚しないのか」「孫が見たい」だなんて言葉は一回も聞かなかった。

社会人になって数年経った頃、おばあちゃんから「なんで東京で働いてるのか(長野に戻ってこないのか)」と聞かれたことをよく覚えている。寂しがってくれているのが単純に嬉しかったのもあるし、その当時仕事に対して、このままでいいのかな、と思うようなタイミングだったのでグサリときてしまった。長野に戻るのも有りなのかな、と初めて思った瞬間だった。

東京に戻る日、新幹線が止まる駅まで車で母親が送ってくれる時に、毎回家から外へ出て手を振って送り出してくれた。社会人になってからは、これからあと何回こうして見送ってくれるんだろうって車の中で毎回思っていた。

 

5年前に実家へ帰って、おばあちゃんと「いつ帰ってきたの?」「今日の5時頃だよ」ってやりとりをその日のうちに何度も何度も繰り返すようになって、痴呆が始まったことを知った。

その2年後くらいには杖をついて歩くようになって、それからは私のことを忘れてしまって、ついに名前で呼んでくれなくなって、私の顔を見るとおばあちゃんの妹さんの名前で呼ぶようになった。

ちょうどその頃、その妹さんが病気で入院したとのことで、両親とおばあちゃんと一緒にお見舞いに行く途中で寄った海老名のサービスエリアで、見ず知らずのお母さんに抱っこされてる双子の赤ちゃんを見て、嬉しそうに、かわいいねえと笑顔を見せるおばあちゃんを見て、私の小さい頃のおばあちゃんを思い出して外なのに泣きそうになったのを覚えてる。もう、そうやって私のことを見てくれなくなってしまったんだな、と。

 

杖をついて歩くようになってから2年後、今から1年前には寝たきりになっていた。実家に帰って顔を見せに行っても、顔を向けて凝視するだけで何も話せなくなってた。実家に着いたときと東京へ戻る時にだけ、軽く声をかけるくらいになった。

 

先週の日曜日、同僚のライブを見る前に寄った喫茶店で本を読んでいたら、父親から「おばあちゃんがそろそろかもしれない」と電話がかかってきた。そろそろ、は、今日かも明日かも一ヶ月後かも分からないけれど取り急ぎ、と。今までのおばあちゃんの変化を見てきていたので、動揺はなくて、ついにこの時がきてしまったのか、とか、仕事の調整はある程度 事前にしなきゃな、と思ってとても冷静だった。

明けて月曜日、仕事が終わってちょうど家に着いたタイミングでまた父親から電話がかかってきて、亡くなった報せを聞いた。明日から通夜だから、と。この時も驚くほど冷静で、会社のSlackを開いて、上長へ必要事項の連絡をして、チームメンバーへ事情の報告をして、次の日参加する予定だった勉強会のキャンセル連絡をして、会社のGoogleカレンダーには3日間の忌引のお休みを登録した。

正直、亡くなった実感がわかなくて、それよりも看病をしてくれていたお母さんがやっと楽になれて良かった、という気持ちが強かった。(もちろんこの気持ちは今でもある)

 

礼服もなにも持っていなかったので、翌日の午前中に服やバッグなどを揃えた。いろいろある数珠を店員さんに並べてもらって、おばあちゃんが好きだった服の色に近い紫のものにした。そのまま新幹線に飛び乗り、斎場について、布団に入ったおばあちゃんに会うことができた。今年の正月に帰った時に見た時よりも急激に痩せこけていた。初めて亡くなった人の肌を触った。

通夜を終えて実家に戻り、奥にあるアルバムを引っ張り出した。私は長女なので小さい頃の写真はたくさんあった。両親とおばあちゃんと4人でいろんな場所へ旅行をした写真が残っていた。ああ、この服でお手玉を作ってくれたな、とか、おばあちゃんのこのふよふよした柔らかい二の腕を触るのが好きだったな、とか思い出して、亡くなったのを知ってから初めて一人で泣いた。

翌朝6時起きで準備して、7時から納棺のとき。掛け布団を外して、初めて全身を見た。数珠を選んだときに思い出した服とはもちろん違うけれど、選んだ数珠に似た色味の紫の上着を着てちょっと嬉しかった。黒い靴下には黒猫が刺繍されていて可愛かった。そして、昨日写真の中で見た、あのふくよかなおばあちゃんはガリガリになっていて、長袖だったから見えなかったけど、絶対に二の腕は柔らかくない。お棺に移すときに持ち上げたおばあちゃんは羽のように軽かった。納棺の時も、山奥にある火葬場に向かうバスでも、ずっとおばあちゃんとのことを思い出しては涙が止まらなかった。

火葬場について、最後の見送りをしたときに、初めて父親が涙を拭っていたのが見えた。斎場に戻って告別式をして、終わってから、骨になったおばあちゃんを抱えながら弟が運転する車で実家に帰った。車の中でおばあちゃんと一緒に写真を撮った。

 

痴呆が始まってから少しして実家に帰ったときに「結婚なんてするもんじゃない」と言っていたおばあちゃんから「いつ結婚するのか」と一回だけ聞かれてびっくりした。その時は予定もなければ相手もいなかったから笑ってごまかしたけれど、相手がいればおばあちゃんに会わせたかったな。

今でも「女だから」という言葉はこの世で一番嫌いなフレーズだ。そう思われたくなくて仕事を頑張れているところがある。片付けや料理は、まぁ、ある程度はできるんじゃないかな?うん、多分。おばあちゃんにがっかりされない程度にはね。

 

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